夕方、ラペに行かないかと誘われた。
そこにはアレックスの弟の義父が住んでいて、昔話を知っているというのだ。
昔話は逃げていく訳でもないのに、旅の疲れも、子供への気配りも忘れ、ふたつ返事で
誘いに乗った。
インドネシアでは、出かけるとなると、どういう訳か多人数になる。アレックスの弟夫婦とその子供二人、アレックスの子供三人、私と仁、邦子の十人で、例のコルトに乗った。
街中のよろず屋で、「アクア」というプラスチックボトルに入った水と、ストロー10本、それに、裸のままで木箱にならべられていた黄色いカステラ菓子のようなパンを夕食がわりにしこたま買い込んだ。
太陽はすでに西に傾きかけ、コルトの背を赤々と照らしている。窓からの風が心地よい。アレックスの弟は、埃が幾らか多めに立つと、私が埃を嫌う文明人だと思い込んでいるらしく、慌てて、
「窓を閉めて、閉めて」と叫んでくれるが、埃などどうってことはない。少し多めになったら目をつぶっていたらいいのだ。それよりこの風、なんて涼しいのだろう。
ガタガタ揺れるコルトの中で、私たちの夕食が始まった。各々が数個のパンと一本のストローをとり、4本のアクアを代わる代わる自分専用のストローで吸い、胃袋に流し込んだ。子供たちはきゃあきゃあ騒ぎ立てながら、一本のアクアに数本のストローを同時に突っ込んで、すすりあっている。
二つ目の集落を過ぎた頃には、とっぷりと陽は落ち、あたり一面、墨を流したような闇に変わった。
車のライトに照らされて、時折、高床式の家の入り口にだらりと足を垂らしている男の姿がぽっかりと浮かんでは消えて行く。電灯のない暗闇で、夕涼みでもしているのだろうか。
二時間経ってやっと、ほのかな明るさが漂う集落、ラペに着いた。それでも道は暗く、子供と数珠つなぎで手を握り合い、足元を探りながらアレックスの弟夫婦の後に続いた。しばらくそうして行くと、前のあたりが急に明るく輝いた。足元ばかり向けていた頭をもたげると、目的の家だった。入り口に裸電球が煌々と輝いている。
高床式の正面玄関でもある階段を、靴を脱いで上がって行くと、六十過ぎの老夫婦と二人の娘がにこやかに出迎えてくれた。
老人は私が日本人で、ここに昔話を聞きに来たと知ると、ポツポツと、自分は第二次世界大戦中に日本軍のもとで歩兵をしていたのだと話し出した。
だから “タマゴ”も“ニワトリ”も知っとる。“国を出てから幾年ぞ〜”も知っとるんじゃ、と日本の軍歌をちょっと口ずさんで見せた。
私は五十六歳で胃癌で死んだ父親を思った。父親は軍人だった。満州から南方のパラオに渡り、そこで終戦を迎え、引き揚げて来たのである。
記憶に残っている限り、父親は毎晩のように酒を飲み、火照った両足に幼い私の冷たい足を挟んでパラオ諸島での体験を話してくれたものだった。
実際のところ、その話のどこまでが真実で、どこまでが作り話なのか分からないが、南方の人たちは椰子の木を大事にしていたから兵隊たちも椰子の木は大事にしていたんだ、と言っていた。
今私の目の前にいる老人は、戦争という時の中では、父親とは逆の立場にいた人である。しかし、節くれだった指や、顔に刻まれた皺、それに浅黒い皮膚から滲み出ている煙草の臭い、そうしたものがあたかも父親と向かい合っているような錯覚を起こさせていた。
それは、老人が昔話を始めると、父親の温もりに包まれていたあの頃のように穏やかな老人の語りをうっとりと聞き入っていた。
天女
むかし ラペの とある村に ララ・ジャンメレラという 男がおった。
男は ひどい 皮膚病持ちで しょっちゅう 体のあちこちを ガリガリと 掻きむしって いたので いつの間にやら 村人たちに “ガリガリ”と 呼ばれて いたそうな。
ガリガリは 家の 庭先に 紅花を 作って おった。
ところが ある朝 いつものように 紅花を みまわって いると 実が ごっそり なくなって おる。
「はて 誰が とったんだ」
たまげた ガリガリは あくる朝 まだ 暗いうちから 起きて 庭先で じっと 見張って おった。
しばらくして あたりが ほんのりと 明るんで くると 天女が七人 ひらりひらりと 天から 下りて きて 井戸の まわりで 楽しそうに 水浴びを はじめた。
その 美しいこと まばゆいこと。
ガリガリは 我を わすれて 夢でも 見ているように しばらく ぼうっと 見とれて おった。

切り絵:井出文蔵先生
そうして 見とれて いるうちに 中の 一人でもいい なんとか 嫁に できないものかと 思案 した。
そして 天女たちに そっと近づき 脱ぎ捨てて あった 羽衣の 一枚を とって 隠して しまった。
その時 人間の 気配を さとった 天女たちが わらわらと 羽衣を まとい はじめた。
ところが 一枚 足りん。あちらを 探しても こちらを探しても 羽衣が 一枚 みつからない。 しかたなく 六人の 天女たちは 一人 残して つぎつぎと 天へ 帰って いった。
一人 残された 天女は 翔ぶことも出来ん 帰ることも出来ん。 ただ オロオロと 途方に くれておった。
そこへ 陰で 様子を ながめていた ガリガリが 何も 知らんような 顔をして 出て いって ああだのこうだのと さんざん なぐさめてから
「そうだ そうだ おらの 嫁に なって おらの 家で 暮らせば いいさ」
と いいよった。
とつぜん 人間の 男に いいよられた 天女は 怖くなって 逃げ出した。
けれども 逃げ出してはみたものの なにせ 羽衣の ない 女の足 男には かなわん。
それに 今はもう 帰るところも ない。
天女は 仕方なく 言われるまま 男に ついて行った。 そして そのまま 一緒に 暮らすように なった。
月日が 流れ やがて 二人の あいだに 男の子が 生まれ マンチュウにと 名付け 親子三人 すっかり 落ち着いて 暮らしておった。
そんな ある日。
ちょうど ガリガリが 用足しに 出て 留守だった時の ことだ。
嫁の 天女と ガリガリの おっ母様が 喧嘩に なった。
天女は 嫌な 気持ちに なって ああ もう 天に 帰りたいと 天を 仰ぐように ふっと 天井を 見上げた。
すると あの ずっと 探していた 羽衣が 梁の 上に あるではないか。
天女は 気が狂ったように 柱を よじ登った。
そして その 大事な 羽衣を 手にとり そっと 竹筒の 中に しまい込んだ。
そうして おいてから 乾いた 椰子の 葉に
[おっ母さんは 天へ 帰らねば なりません。
もし おまえが おっ母さんに 逢いたくなったら 黒もち米の
もみ殻を 燃やして その 煙を つたって 天へ 上がって きなさい」
と 書き付け 指輪と いっしょに 眠っている マンチュウニの 枕元に 置いた。
そして 天女は そそくさと 竹筒から あの 羽衣を 取り出して まとい すうっと 天へ 向かって 消えていった。

切り絵:井出文蔵先生
用足しから 帰った ガリガリは 嫁が 天へ 帰ってしまったことを 知った。
青ざめた ガリガリは 書き付けに 書いてあったとおり 黒もち米の もみ殻を 燃やして その煙を つたって 天へ 上って いった。
ガリガリが 天に 着いて しばらく行くと 召使いたちが 水を くんで おった。
ガリガリが 声を かけると
「わたくしどもの 天女さまが ずっと 留守でしたの。さきほど やっと 戻って 来られて ほっと していますの。でも 体中が ボチボチに なってしまって。それで 今から 綺麗にして さしあげますのよ」
と 言うた。
ガリガリは はっとして
「それなら 俺にも 手伝わせて くだせえ」
そう 言って 水桶を 一つずつ 召使いたちの 頭の 上に のせて やった。
そして 最後の 桶に 嫁の 天女が 残して いった 指輪を 入れた。
何も 知らない 召使いたちは そのまま 水桶を運んでいって 天女に 水を 浴びせた。
一杯目の桶 二杯目の桶 三杯目の桶 そうして 最後の桶の 水を浴びせた時 チリンと 音が して 指輪が 落ちた。天女は 指輪を 拾って
「これは わたくしの指輪。ここに 入れたのは 誰」
と聞いた。
「さあ 誰でしょう」
「もしかしたら あの がっしりとした 男の方かしら」
「わたくしどもの 頭に 桶を のせて くれましたから そうかもしれません」
「すぐに お探し」
召使いたちは 天女の 言いつけどおり すぐに ガリガリを 探し出して 天女の もとに 連れて きた。
こうして ガリガリは ようやく 天女に 逢うことが できた。
ところが 天女は ガリガリが いくら拝んで 頼んでも 決して 下界に 下りるとは 言わんかってそうな。そのかわり マンチュウニを 育てるために 天」の 召使いを 二人ばかり 下界に つかわしたと。
その 子孫が 今でも ラペに 住んどる。たいそう立派な 家にな。それ以外の 子孫は わしらと いうわけじゃ。

話し手: イカ ジイ アビデインの義父(1987年)
切り絵:井出文蔵先生
この話は、日本にある羽衣の話と殆ど同じで、ただ違う点は、姑と子供の登場ぐらいのものである。
中国や韓国、日本、そしてインドネシアをはじめとする東南アジア各地にこの話が点在する(平凡、社の世界百科事典、および松本亮著、悲しい魔女参照)ことから見れば、少なくともこれらの国々は、古代から海を越えて交流していたのだろうと思う。では何故、この話がこれらの国々で好んで語りつがれてきたのだろう。何かがある。私たちの心の中に入り込み、無意識下で共感させる何かがある。だからすたれることなく語りつがれてきたに違いない。私はこの話をラペで聞いてからずっと、その答えを探していた。
数年後、私は思わぬ危機に遭遇し、生きるの、死ぬのと七転八倒しながら自分自身と向かい合わざるを得ない状況に追い込まれていった。それからの数年間をくぐり抜くのは、決して生易しいことではなかった。が、結果的にその体験と天女をはじめとする昔話から生きる意味を導いてもらったように思う。
自分自身と向き合うことで、いかに多くの事柄で自分自身を縛り付けていたかに気づいた私は、この話に出てくる羽衣とは、自由な心を意味しているのではないかと思ったのである。
幼い頃からの刷り込みを捨て、自分を見つめ、本当に自分はどうしたいのか、どう生きたいのかと問い、決断して生きていける人はまれである。そうするのは苦痛を伴うし、悪意に満ちたみっともない自分を肯定し愛せることが前提だからである。凡人には、到底達し得ない境地とも言える。天女はそれが出来た高貴な人間なのだ。だから、子供が生まれたにもかかわらず、不誠実な関係性から生じた愛のない生活を捨て、自分が求める幸せな世界へ帰ったのだろう。
勇気のいる行動である。母性神話が堂々とまかり通る現代においても、子供を捨てて自分の幸せをつかもうとする女は社会的には排除されるのが常なのであるから。
私もはじめは、天女が子供を残して去って行くくだりがどうにも納得できなかった。しかし、突き詰めて考えていくうちに、嫌なことに耐え、子供のために自分を不幸にして生きることが、子供への愛とは思えなくなっていった。
子供にとって、母親とは、かけがいのない、生きて行くための見本である。そんな見本が陰鬱な顔で、あんたたちのために我慢して生きてきたのよ、などと愚痴り続けたらどうだろう。子供は一生涯、その母親が己を縛り続けてきた糸でまた、子供自身も縛らなくてはいられなくなるのではあるまいか。
この話がどのくらい昔のものなのかはわからない。が、おそらく、女たちが人として生きて行くには辛い時代であったに違いない。その時代から時を越え国を超えて語りつがれているということは、私たちの本質は変わらないということになる。
子供たちは、窓際に置かれたベッドの上で転がったり飛び跳ねたりしていた。その騒ぎの中から仁がポロッと出てきて、小便という。物思いからさめた私は何気なく、日本にいるような調子で娘さんにトイレに連れていってくれるように頼んだ。
ところが、しばらくして戻ってきた仁の表情がどことなくすぐれない。慣れないせいだろうと、その時はたいして気にもとめないでいた。
この近くで結婚式があるから見ていったらいい、と老人が言った。アレックスの弟も、弟の奥さんも、とっても賑やかだから行こう行こうとしきりに誘う。特にこれといってすることもない私たちは、誘われるままみんなについて乾ききった暗闇の道を音楽は聞こえる方へぞろぞろと歩いた。歩きながら仁が言った。
「さっき俺、小便しようと思ってトイレに入ってたまげたよ。竹を張った床に、ちぃっちゃい穴しかないんだ。下に豚がいて、ブウブウいってんだ。ちんぽこ縮まっちゃったよ」
結婚式場は、いくつもの裸電球に照らされて広っぱにあった。
式場の中央に黒い幕を張り、床に赤い布を敷き詰めた即席のステージが作られ、そこで、派手な化粧に民族衣装をまとった娘たちが体を揺すりながら如何にも楽しそうに歌を歌っていた。
その側で、花嫁と花婿が緊張した面持ちで、笑いもしなければ瞬きもせず、じっと座っている。まるで人形だった。
そして、そのステージを囲むように並べられた五十脚ほどの籐椅子には、村の重要人物や親族などが座り、その周りを立ったままの黒山の人々が弧を描くように取り囲んでいた。
私たち親子は全くのよそ者である。
ステージの端で眺めようとすると、アレックスの弟が座っている村人を立たせて、私たちのために椅子を空けてくれた。なんだか申し訳ない気持ちになって小さくそっと座ると、即座に紅茶と紙にのせたクッキーが運ばれてきた。主賓席ともなればぐっと待遇が良くなるようだ。
やがて結婚式の余興は最高潮に達した。それまでおとなしく娘たちの歌を聴いていた村の衆がピーピーと野次を飛ばし、娘たちをからかい出した。純朴な娘たちは、恥じらいながらも嬉しそうに野次をはね返す。その辺りが何とも色っぽい。日本ではもうあまり見られなくなった男と女の光景だ。
アレックスの弟が、最前列に座っている人の耳元でボソボソと話したあと、腰を屈めながら私のそばにやってきた。そして、私にこの大勢の人前で、どんな歌でもいいから歌って欲しい、というのだ。
とんでもないことになってしまった。歌わなければ情けない。アレックスの弟には義理もある。だからと言って、引き受けたらどうなる。駄目だ。全身に震えがきて気絶しかねない。ああ、どうしよう。
隣に座っている邦子を見た。その途端、ハッとした。私たちのやりとりを見ていたのである。そのあどけない大きな目に奮い立たされ、逃げ出したい気持ちを押し殺して、私はマイクの前に立つことにした。
「こんばんは。私は日本からここの昔話を聞きにきました。今からブンガサクラを歌います」
とっさに出たのはそんな言葉だった。ブンガサクラとは、古関裕而さんが昭和十三年ごろ作曲した曲で、のちにスカルノ大統領がそのメロデイに合わせてインドネシア語で作詞したものだと聞いている。普段から何となく気に入って口ずさんでいた曲だった。
歌い出すと、予期していた通り恐れていた震えがやってきた。膝のあたりがガクガクしておかしいと気づいた時には、一小節の途中から二小節の後半を歌っていて、リズムがまるでおかしくなっていた。そうなると、どうにもしようがない。仕方なく、またはじめかから歌い出すと、今度は声が出ない。上がっていて、一オクターブ高く歌いだしていたのである。
こんな具合だったから、聴いていた人たちは、何を歌っていたのかさっぱりわからなかった筈である。ところが、終わってみると、口笛混じりの拍手喝采が怒涛のごとく湧き上がり、客席から六十五歳くらいで元気のいい年寄りが飛び出してきた。そして、私の手を力いっぱい握り締めながら日本語らしき言葉を、マイクに口を突き出してまくし立てた。すると、拍手喝采はさらに勢いを増し、しばらくの間止むことがなかった。人々は年寄りの喋っている内容が分からず、私もまた、彼の喋っていた日本語がわからなかった。ただそこにあったには、互いに相手を受け入れようとする思いだけだった。
私は胸の奥からこみ上げてくる痛くなるほどの感情で言葉にならず、テリマカシ(ありがとう)テリマカシと繰り返しながら一目散にステージから退散した。
ところが、凄まじいのはそれからだった。
席に戻る私をアレックスの弟が待ち構えていた。
「奥さんの歌、素晴らしかった。みんな大変喜んでいます」
それから堰を切ったように人々が押し寄せてきて、自分はどこそこの誰々だが、是非家に寄ってください、と握手を求める手を差し出しながら口々に私のヘボ歌を褒めちぎった。そばに座っていた邦子や仁は、覆い被さるように押し寄せてくる人々に、小さく屈んで目ばかりキョロキョロさせていた。
結婚式がひけた帰り道、大きく豊かに輝く無数の星を仰ぎながらまた乾いた道を引き返した。闇の中でザワザワと人々が流れ、うねりながら進んでいく。星空を楽しんで散歩している大蛇のようだなと思った。
実際、闇は人間に想像の世界を与えてきた。闇を恐れ、恐れるがゆえに想像の世界が限りなく広がっていた。それが科学文明によって闇の世界は狭められ、同時に想像の世界も狭められてきている。
私は決して闇を狭めている科学文明を否定するつもりはない。が、この時しみじみと、闇が私たちに与えてくれていた大切のものを私たち日本人は失いつつあるのではないかと感じていた。
邦子がそっと私の手を握りしめ、お母さん、勇気あるね、と囁いた。
私は照れながら
「アレックスの弟さんが言っていたんだけど、あのお爺さんはどうもニコのお爺ちゃんと同じくらいの年らしいよ。昔日本がここに攻めてきた時、兵隊さんから日本語を教えられたんだって。本当は、お母さんも仁もニコも憎まれたって仕方がないんだけれど・・・どうしてあんなに喜んでくれたかわかる?それはね、お母さんがさっき歌ったヘボ歌の最後の歌詞、インドネシア人も日本人も皆アジア人ってところが、みんな嬉しかったんだと思うよ」
邦子はふうん、と頷き、つないでいた私の手を」また、握りしめた。
たくさんの人に見送られて、私たちは星の降る一本道を引き返した。いつしか、後ろに乗っている子供たちの騒ぎ声が、潮が引けるように途絶えていた。