
宿屋の裏でニワトリと遊ぶ邦子と仁
鶏肉を食べた次の日の昼頃、私達親子を空港から宿屋に案内してくれたファイサルが、昔話を知っているという六十過ぎで丸顔のオビという男を連れてやってきた。
やたらニタニタ笑う男で、笑うたびに、かろうじて残っているたった二本の丸い棒のように痩せた糸切り歯を、突如としてむき出した。
人の良さそうな感じではあったが、どう見ても昔話を知っているようには思えず、私が疑り深い顔をすると、ファイサルに向かって、あれ、あれを出せ、という仕草をした。
出されたのは、オーストラリアで出版されたインドネシアの慣習法に関する写真入りの分厚い本だった。
その巻末に、本物かと疑りたくなるほどいい男に撮れたオビの写真が載せられてあった。
そこで私が
「ほぉー」
と感心すると、オビはすかさず、どうだ、すごいだろう、と言わんばかりに頷き、ニタニタしながら私を見た。
「で、どんな話を知っているの?」
と、切り出すと
「奥さんはどんな話が知りたいんだい?」
逆にオビが訊いた。
「おとぎ話とか、歴史話とか・・・」
するとオビは、腕を組んで考え込むように目をつぶった。
「・・・・わしゃあ、この島の歴史は知っとるがのぅ。それでもいいんかい?」
丸いどんぐり目玉をさらに丸めて、オビが訊いた。
どうも、私が言った“話”という意味が分ってもらえていないようだ。しかし、わざわざ訪ねてきてくれたのだから、今さら断るなど出来なかった。
ところが、録音を始めると、この島の最初の先祖といわれるキカガから延々と、念仏を唱えるように系図を語りだしたのである。
九十分のテープを使い切ってもまだ終わらず、次のテープを取り換えはしたものの、何だかでたらめを聞かされているようで、次第に気乗りしなくなっていった私は、いつしか居眠りをこいでいた。
ハッとして、オビを見ると、天井を見つめたまま相変わらず唱えていた。いささかうんざりして、いつまで続くのだろうと入り口の方に目をむけると、入り口が壊れんばかりに大勢の人が無言のままひしめき合っていた。
私はギヨッとして、テープを止め
「ファイサル、この人たちは何なの?」
と訊いた。
「奥さんたちを見に来たんですよ」
ファイサルは微笑みながら静かに言った。
「でも、今日まで、私たちが見えないみたいに誰も声を掛けてくれなかったじゃない。何故なの?」
「それは、みんな、怖かったんですよ」
「何が?」
「奥さんたちがです」
「この私が?」
「そうです」
「でも、私はか弱い女よ。力なんてない」
「でも、この島の人たちは、外から来た人間がどういう人間なのか、どこから来たのかが分るまで怖いんです」
私は返す言葉がなかった。
「でも、もう、奥さんがここに何しに来たかわかったので、みんな安心しています。奥さんはみんなのことを知らないかもしれませんが、島のみんなは奥さんのことをよく知っています」
そうだったのか・・・。
この島来て以来、今日まで、出会いすれ違った人たちは皆、私たち親子に格別な関心を抱き、観察し、互いに得た情報を交換し共有していたということだったのか。
だが、一体どうやって。
どう思い返してみても、探りを入れられたり、コソコソと噂をされた覚えが全く無いのである。
その見事としか言いようのない卓越した情報収集力、そして思いもよらぬ島の人たちの行動の意味を知って、私は唖然とするばかりだった。
と同時に、そのような彼らの行動はおそらく、十六世紀以来、ポルトガル人から始まってイギリス人、オランダ人、日本人と、次々に侵入してきた外来者から身を守る術の一つだったような気がした。
「奥さんは寝ていてもいいです。私がオビの話を紙に書いていきますから」
ファイサルは、居眠りをしていた私を気遣って、ベッドの隅で横になるように勧めた。
それは、系図に使われている人名が、歯が二本しかないオビの発音から文字にするのは外国人の私にとっては、非常に難しいと判断した上での勧めでもあった。
勧められるまま、図太く手枕をしてオビの念仏を聞いているうちに、これがいつまで続くのだろうと、また心配になった。
一年でも二年でもここにいられる身分ならいいのだが、時間はかぎられているのだ。
そこで
「ごめんなさい、おび。オビの話、まだ長いの?」
オビはまた、ニタニタと笑いながらウンウンを頷き、そして
「話せと言われりゃ、一日だって二日だって話せるがの」
自慢げにいった。
何たることだ。
そんなことになったら、この念仏を聞いただけで、帰らねばならないはめになるではないか。
頭の中がぐるぐると回り出し、咄嗟に我ながら拍手を送りたくなるような言い訳が、口から飛び出していた。
「じゃあ、オビ、家で紙に書いてきてくれない?」
オビは頭を掻きながら
「んでも、奥さん。わし、紙がないでのぅ」
妙に元気の失せた調子で答えた。それでも私は、すかさず、
「紙なら私が買うわ。ここで売っているでしょ、ファイサル」
と、押し切った。ところがファイサルは、
「それは売っていますが。でも、駄目です。オビは字を知らないんですから。私がオビから少しずつ聞いて、書いてあげますよ。奥さんは疲れているんですから」
字を知らないオビがどうしてここの系図を知っているのか。しかも、二日もかかるという代物である。やはり、インチキではあるまいか。
私は、オビに直接訊くのは悪いと思いつつも、
「で、どうやって覚えたの?嘘じゃない?」
すると、それまで入り口でただ眺めていた人たちが、それぞれ、
嘘ではないというように頭を横に振るのである。
そのうえ、そばで見ていた宿屋の息子が、真剣な顔で付け加えた。
「僕もオビの言っていることはでたらめだと思って、本に書いてある系図を見ながらオビの喋ることをチェックしたことがあります。
でも、ただの一つも間違っていないのです。ただの一つも、です。驚きました。オビは系図を知っている人から、耳を使って覚えたのです。ですから、この島の人たちはみんな、オビのことを尊敬しています」
オビは何の弁解もせず、相変わらず丸まった二本の歯をチラチラさせながらみんなの話を聞いていた。
しかし私は、もうトドのようにだらしなく寝ていられる気分ではなくなっていた。
起き上がって、ベッドの上であぐらをかき、まじまじとオビの顔をみつめて、
「 すごいなぁ」と、漏らしていた。
オビは外国人の女の称賛を得て、しばらくきまり悪そうに頭を掻いていたが、そのあとで、気を取り直したように私を見つめた。
「わしには、魔力があるんでさぁ」
「スンバワでもそんな話を聞いたわ」
淡々と反応する私の言葉を無視して、オビはさらに続けた。
「この島の魔力は、そこいらの島の魔力とは出来が違うでの。ここが一番だよ」
オビの目は本気だったが、私の第六感からすると、それは魔力を使う凄みのある目ではなく、どちらかというと、悪戯っぽい少年の目のように思えた。
とたんに、私はこの男にじゃれてみたくなった。
というのは、数年前、日本インドネシア語辞典を作られた森利貞氏を尋ねた折に聞かされた話を思い出して。あの手を使おうと思いついたからである。
話というのは、森氏の知り合いであるインドネシア人の息子が日本に留学して東京で暮らしていた時のことだ。
その時に付き合っていた日本人の娘が、気が狂ったように息子の後をつけまわし、挙句の果てに死んでやると自殺未遂まで起こしたというのである。
ここまでは、よくある話なのだが、その裏話が凄い。
何と息子は、まじない師が、草の根っこや木の皮、それに人間の髪の毛などを調合して作った“惚れ薬”を、母国から持ち込んでいたのだそうだ。
そして、その、付き合っていた娘をお茶に誘い、隙をみて“惚れ薬”をほんの少しカップにつけてみたところ、娘はキャッキャッと息子をつけまわすようになったという。
信頼している森氏が真面目な顔をしてそう言うのだから薬は存在するのかもしれないが、私はついぞお目にかかったこともなかった。
「オビ、“惚れ薬”って知っている?ほんの少し使うだけで、目の前にいる人が好きになる薬だけど」
私がオビの目を覗き込んで訊くと、周りにいた男たちや女たちはゲラゲラ笑いだした。
「知っとる」
「じゃあ、作れる?」
「うん、まあ」
「私、日本に持って帰るから」
「そうさな。したら椰子の油をコーラの瓶に入れて用意してくれるかい?」
オビは次第にハッスルし始めていた。
入り口は覗き込む人の山がさらに膨らみ、バランスが崩れると山は大きく揺れ、中には倒れる者まで出てくる始末で、当然、一番前に陣取っていた者は座らざるを得ない状態になっていた。
ベッドの片隅に腰を掛けて、言葉が分らないままに事の成り行きを眺めていた仁と邦子は、いつしかオビのすぐそばまで近づき、両手で頬杖をついてオビの顔を仰いでいる。
この時、不幸中の幸いというより、幸い中の不幸というべきであろうか、仁は遊んでいて突き指をしていた。あいにくシップ薬がなかったので、水で冷やしてから、気休めにバンドエイドを貼っていた。仁のその指に気づいた私は、
「オビ、この子の怪我も治るかしら?」
と、最後の詰めにはいった。
「治るとも。薬を塗って、フゥーと息をかけるんじゃ。そしたら治る」
きっぱりと言い切られると妙なもので、オビはここの元祖呪い師なのかもしれない、そんな気になってくる。まあ、それならそれに越したことはない。出来上がった“惚れ薬”を日本に持ち帰って試してみればいいだけのことではないか。
使いを頼んだ島の子どもが、息をきらしながら椰子油の入ったコーラの瓶を抱えて帰ってきた。
すると、それまでベッドの奥で天井を睨んでいたオビは、おもむろに腰をあげ、それからコーラの瓶を受け取って、ベッドとベッドの間の土間にあぐらをかいた。
みんなの目が一斉にオビに注がれ、一瞬張りつめた空気が流れた。
その空気を確かめるようにオビはしばし瞑想にはいり、それから突如として、始めたのである。
それは、呪いには違いなかったけれど、ただ単に、意味の解らない言葉を、大声と小声とで唱え、最後にコーラの瓶の縁に唇をあてて、ブゥーッと鳴らすことを繰り返しただけであった。
「ムニャムニャムニャ、ムニャムニャムニャ、ムニャムニャムニャ、ムニャムニャムニャ・・・・ブゥーッ」
瓶が情けなくブゥーッと鳴るたびに、周りからどっと笑いが湧いた。しかし、オビはくじけることなく、背中を丸め、一心不乱に唱え続けていた。
それがまた、新たな笑いを誘い、とうとう腹を抱えて笑いこける男たちや、どこから持ち出してきたのか、割れたガラスのカップを口に当ててブゥーッと鳴らす真似をしておどける、御調子者の女まで出現した。
部屋中が笑いで埋まった。
互いに顔を見合わせ笑いあった。
私は、彼らが心を開いて私たちを迎え入れてくれたことを感じ取っていた。
やがて、オビの長い呪いが止んだ。
オビは夢からさめたような顔で神妙に私の方を向き、コーラの瓶を丁重に差し出した。
「この子につけてやるといい。すぐに治るからの」
それから、よろけながら腰を上げ、丸い歯を剥き出してからニタッと笑った。
オビが引き上げたあと、私は嫌がる仁をつかまえて、無理矢理、突き指をした人さし指にオビの“惚れ薬”を塗り、フゥーと息をかけてみた。
やはり、椰子油でべとべとになった指はゴミがついただけだった。それでも一向に腹がたたず、それどころかオビに出会えたことが嬉しかった。
オビの“惚れ薬”は、突き指は治せなかったけれど、この日を境に、私たち親子と島の人たちを惚れ合わせくれたのである。
あれほど用心深く、素知らぬふりをし続けていた島の人たちが、絶え間なく私たちの部屋を訪れ、ああでもない、こうでもないと、およそ昔話とはかかわりのない話をし、ぐるりと部屋の中を眺めまわした後、日本茶などを飲んで帰っていくようになった。
そのうち、日が暮れてくると、私は段々とくたびれてしまい、扉を開け放したままベッドに転がっていた。
すると
「奥さーん、奥さーん」と呼ぶ声がした。
立ち上げって表を見ると、朽ちた棒を突き刺しただけの粗末な垣根越しに、年のころ二十歳くらいの、ふっくらとした丸顔の娘が、首を伸ばしていた。
「奥さん、あたし、チィチィ。何かして欲しいことがあったら言って。お湯はいらない?いるなら持っていくよ」
飾りっ気の無い娘に親しみを感じた私は、その時さほど必要でなかったのだが、お湯を入れるポットを手渡した。
「オッケー、すぐに持っていくから」
娘は手早にポットにお湯を入れ、垣根を飛び越して部屋に入って来た。
「あたし、ファイサルとは従姉妹なの。奥さんが昔話探しているって聞いたけど、ほんと?」
「ええ、チィチィって言った、あなたの名前?」
「そう、チィチィ。チィチィっていうのは、あたしの呼び名なんだ。ほんとの名前は、ジャイバ。嫌いじゃないけど、チィチィのほうがなれているから、チィチィって呼んで」
「じゃあ、チィチィ、私は幸枝よ。悪いけどベッドで寝ながら話していい?疲れちゃったの」
チィチィと座って話したかったが、何しろ疲れていてベッドの上に座っていられなかった。
チィチィは、そんな不作法な私を気にせず喋りつづけた
「いいよ、寝ていて。それじゃ、あたしがファイサルと一緒に昔話を探すのを手伝ってやるよ。もう、あたし、奥さんと友だちだもの。そうだよね?」
私が頷くと、チィチィは顔を輝かせてさらに続けた。
「あたしね、外国人が好きなんだ。ここにも白人が来ているけど、悪い人じゃない。いい人よ。奥さんは会ったことない?何か調べに来たみたいだけど、こんなにいっぱいの織物買ってた。アメリカに送るんだって」
仁の寝ているベッドに腰を掛け、組んだ片足のズボンの裾を折ったり伸ばしたりしながら俯いたまま喋っていたチィチィは、如何にも沢山というふうに、両手をいっぱいに広げてみせた。
黒い睫毛がくるりとカールしていて、可愛らしい。
「日本人も来てたよ。もう、帰っちゃったけどね」
「日本人?」
「そう、日本人」
「こんなところまで来る日本人なんているの?」
「A子って言うんだよ、その日本人。奥さん、知らない?すごい大学を出て、この島の慣習のことを論文に書くんだって。インドネシア語は全然できなかったけど、サウ語を覚えようとしてた。頭がいいんだって。奥さんも覚えなよ」
「そうねぇ、でも、難しいでしょ?」
「難しくないよ。あたしが教えてやるから。紙ある?」
促されるまま紙と鉛筆を差し出すと、チィチィは私の枕元で、一はEHHI,二はDUE,三はTALLU,と書き始めた。
疲れていて覚える気もない私は、それを横目で眺めながらA子さんという人のことを思った。
私がトイレに貼ってあった地図から、偶然に目星をつけて来た島に、同じように大きな関心を寄せ、やって来た女性がいたということが不思議に思えてならなかった。
「A子さんって、どんな人なの?」
私が訊くと、チィチィはサウ語を書いていた手を止めた。
「いい人だよ。いつもお化粧していた。ここまで塗ってね」
そう言って、瞼を指で横になでた。
「ここに半年ぐらいいたんだけど、睫毛を染めるものがなくなったって、日本から送って貰ったんだって、誰かが言ってた。日本の化粧品はいいからねぇ。奥さんはお化粧しないの?ここ染めないの?」
チィチィはケタケタと声を上げて笑いながら、また瞼を指で横になでて見せた。
「私だってするよ。でも、ここは暑いから、してもみんな剥げちゃう。だからしないの」
そう言って私も笑った。それから、他にここに来た日本人のことを知らないかと訊いてみた。
「知ってる。あたしのお父さんから聞いたんだけど、第二次世界大戦が終わった時、イギリス軍が日本兵を捕虜にしたんだって。そしたら、前田っていう隊長が、自分が責任をとると言って、銃殺になるのを願い出たんだって。勇敢だって、言ってた」
「でも、日本兵はチィチィのお父さんたちを、兵歩(ヘイホとインドネシア語化されている)にしたんでしょ?」
「う、うん」
チィチィは言葉を濁らせた。
私が会ったインドネシア人たちは、かつて自分たちの国を侵略した日本人の子孫である私たちに向かって、罵声をあびせるどころか、非難めいた言葉すらならべなかった。
それを、私を含めたほとんどの日本人は、親日感からきているのだと思っている。
だが、ここを旅して思う。本当にそうだろうかと。
どうしても、自分、自分の家族、そして自分の国というものにたいしては客観的にみれないものだから。
「この島に長い洞窟があるんだけど、そこにずっと隠れて住んでいた人がいたんだ。その人は元日本兵だろうって。でも、もういなくなっちゃったけど。死んだみたい・・・・」
そこまで喋ってチィチィは黙ってしまった。
恐らくそれは日本兵だったろう。
彼は、敵の見つかるのを恐れて、あるいは国の為に命を落とせなかった自分を恥じて四十年近く、暗い洞窟の中で暮らしていたのだ。そして、死んでいった。
私の暗い表情を見て、ハッとしたチィチィは、いきなり話題を変えた。
「今、日本ってすごい金持ちなんだよね。働くとすごいお金になるって聞いたけど、本当なの?」
「そうね」
「どのくらいになるの?」
「男の人が道路工事の手伝いなんかをすると、一日一万円くらいかな」
「そうすると、ええと、どのくらい?」
「十万ルピアかな」
「えっ!そんなに」
チィチィは、その金額の多さに驚き、言葉を失っていた。
この国では、チィチィたちが一か月懸命に働いて手に出来る金は、せいぜい二千円程度なのである。
「でもね」
私が続けた。
「金額だけを聞くと驚くけど、日本で生活するのには沢山のお金がかかるのよ。ここでは、入ってくるお金は少しだけれど、生活にかかるお金も少ししか要らないでしょ。だから、同じことなのよ。それに、働いてもお金を貰えない外国人がいるって聞くし・・・
良いことばかりなんてないのよ。生きるって大変だね」
「でも、奥さんは、本当の苦労を知らない」
チィチィは突き放すようにいった。
苦労をしらない?
いかに国が違うといえども、ここの生活状況は、かつて私が幼いころ経験したそれと似ているではないか。
何故、この若い娘は、私が苦労を知らないなどと言うのだろうか。
「どうして?」
「だって、こうして子どもを連れてここに来てるじゃない。あたしなんか、クパンに行くのにも飛行機なんて乗らない。船で行く。船なら十分の一のお金で行けるもの。あたしは、小さい頃、この島で一番貧乏になったことがあるんだ。家が火事になって、全部燃えちゃって、乞食みたいになったことがあるんだ。食べるものがなくなって、惨めだった。それに今だって・・・この島の人たちは奥さんが思っているよりずっと貧乏なんだよ。雨季になると、波が高くなって、米を積んで来る船が来なくなるんだ。そうすると、みんな食べるものがなくなって、毎日、サウ島の砂糖をお湯で溶かして、飲んで寝るだけ。昼間からよ。飲んで寝て、お腹がグーグーいうと、また飲むんだ。だから、お腹がカエルのお腹みたいに膨れちゃう。ハハハハ・・・嫌になっちゃう」
苦笑しながら天井を睨んでいるチィチィの目の奥には、この痩せた土地にしがみつくように生えている灌木の強さがあった。
そんなチィチィから見たら、私は金持ちの国から来た裕福な女にしか映らないだろう。
「奥さん、奥さんはどうして昔話が聞きたいの?」
ドキリとした。
嫌なことを訊いてきたなと思った。
自分の感情のままに行動したなどと言っても解ってもらえそうもない。自分でも何故なのかぼんやりとしかわからないのだから。
「そうねぇ、昔話に恋をしたのかな」
チィチィはどうも解せない、という風に首をかしげた。
「それでそれ、お金になるの?」
「うぅん、ならない。でも、集まったら本にしようと思っている」
「ふうぅん、それじゃあ、あたしが手伝ってやるよ。インドネシアの昔話が日本の本になるんだもの。奥さんが一人でやろうとしても無理。あたしに任せて。それで、それやるのはこの島だけ?」
私が首を振ると、
「この島の隣にライジュアっていう島があるんだけど、奥さんだけ行ったって、誰も相手にしてくれないよ。あたしの兄さん、パグルが一緒だったら話して貰えるけどね。田舎だから、よそ者は信用しないんだ」
この島の人間が田舎だという島、ライジュアはよほど閉鎖的な社会のようだ。どんな島なのだろう。日本の地図には出ていなかった筈である。
「A子も三回行ったみたいだけど、ろくな話を聞かせてもらえなかったみたい。奥さん、大丈夫?」
ハッとして我に返った。チィチィが私の顔を覗き込んでいた。
「ごめん、考え事していたから。えぇと、ライジュア島ね。来年行く。だから、チィチィ、一緒に行こう」
チイチィは無邪気に喜んで、
「あたし、絶対行くから。奥さんの洗濯してやる。汚れた下着だって洗濯してやるよ。だけど、食べ物は駄目なんだ。あたしと兄さんの分は自分で持って行くから、奥さんは自分の分を用意してよ。あたしはイスラム教徒だから、自分の食べ物は、自分で用意して、自分で料理するんだ。でも、作るのは、奥さんの分も作ってやるよ。奥さんは仏教徒なんだろ?」
私が肯定すると、さらに、
「ああ、そうだ。ファイサルがね、明日の晩、昔話を知っているパラドを連れてくるって言ってた。ご飯食べたら家に来なよ。ジンとニコ連れて」
そう言い残して、また垣根を飛び越して帰って行った。
しかし、何と情報が早いのだろう。チィチィは私から訊く前に、仁と邦子の名前を知っていたのだ。
その、情報を察知するアンテナをはりめぐらせ、十分に危険が無いと判断出来るまでじっと観察をするあたりは、自然の中で生きている動物に似ていると思った。