(十四)
ライジュア島行きの計画は、チィチィと手紙のやりとりで丹念に打ち合わせておいたので問題はなかったが、ネックは順子だった。
順子にはサウ島に残ることを一応承諾させてはいたが、部屋にこもって煙草ばかり吸っている順子を見ていると、ひとりここに残していくのは何だか可哀想な気になってく
るのである。
だからといって、体の弱い順子を引きつれて炎天下を歩きまわるのも、考えただけで負担だった。とにかく、置いていくしかない、それだけを肝に命じて床についた。
あくる朝、五時すぎにチィチィが米を入れた布袋をかかえて部屋に入ってきた。
「イブ、したく出来た? もう出発するよ。パグルもしたく出来たって。オクトっていう、今、スンバ島に住んでいる学生も連れていって欲しいって言っているんだけど、いい?」 半分眠っている状態の私の耳もとでチィチィが、声を落として訊いた。
「まあ、いいけど」
「順子さんも行くんでしょ? 支度は出来てる?」
この時、私は間髪をいれずにノー、と言えばよかったのだが、インドネシア語理解し始めていた順子のほうが、私が返事をかえす前に、ムクッと起き上がり
「ええ、もちろん!」
と言って、にっこりと微笑みかえし、傍若無人に荷物をまとめだしたのである。
弱々しい体のどこにそんな図々しさを隠し持っていたのかと、私は驚き、あきれ、言葉がなかった。
五時半にここを出ることにした。チィチイが部屋から出ていってしまうと、私は不機嫌な顔で、テープレコーダー、ノート、カメラ、シャンプー、タオル、菓子、紅茶、熱いお湯のはいったポット、真空パックの五目飯を二食分、それにビタミン剤などの薬を肩掛けバックに詰めこんだ。
せいぜい一日もいれば、昔話のひとつやふたつは聞かせてもらえるだろうとふんで、食べ物は殆ど持たないで船着き場に向かった。 宿屋から歩いて十分ほどの所に船着き場はある。すでにあたりは明るみはじめ、もやがたちこめていた。
「あそこだよ」
チイチィが指さした海辺の近くに、いくつもの黒い幽霊のような影が海のほうを向いて立っていた。そのゾッとするような空虚な雰囲気を感じとったわたしは、ギクッとして足をとめた。
「チィチイ、あれは何?」
「あれ? あれはライジュア島から出稼ぎにきた人だよ。泊まるとお金がかかるから、浜辺に寝泊まりしてるんだ。奥さん、お化けと思ったんじゃない? ハハハ、可笑しいねぇ」
近づいてみれば、たしかに人間だった。冷えを防ぐために、ウエストにゴムをいれないロングスカートのようなサロンと言われている布を、頭からすっぽりとかぶっていたのだ。人々は私たちを気にも掛けず、精気のない表情でぼんやりと、いつまでも海を見つづけていた。

ライジュア島行に乗った船。
船はいつ沈没してもおかしくないほど老朽化したもので、幅は約二、五メートル、長さ四五メートルほどで、甲板は屋根のように中心線むかって斜めに張られた竹で出来ている。その下にある船底には、燃料のガソリンや水が置いてあった。
「これ、ボートピープルが乗ってくるような船だね。ハハハハ」
順子は、かなり驚いていたが、笑いまじりのその驚きかたには、まだまだ余裕が残されている感じだった。しかし、私は内心、命の保障はない、もし、命びろいしたなら、今度は救命具を用意しなければ、と冷静に思っていた。
実際、この船がいかに危険であったかは、それから二年後に証明されたのだった。二年後、私がサウ島を訪れた時、チィチィから聞いたのだが、船は雨の中をライジュア島からサウ島へ戻る途中で転覆し、船主のパジョンソンとその仲間数人は、海の中でアップアップしているところを、幸い通りかかった船に助けられたというのである。
船底はガソリンの臭いが充満しているので、竹を編んだ斜めの甲板で、船の出発を待っていた。
しかし、いっこうに船は動かなかった。性格といい風采といい、マンガ「ポパイ」にでてくるブルートそのもののパジョンソンは時々だみ声をはりあげて、「なおる、すぐに出発だ」と繰り返していたが、もう私には、それがすぐではないと分かっていた。
「まあ、帆で行くしかないかな」
パグルは、躍起になってモーターをいじっているパジョンソンとその助手に向かってつぶやいた。気の弱そうな学生のオクタは、マストに掴まったままことの成りゆきを部外者のような顔で眺めている。チィチィは、ポケットから乾いたトウモロコシの種を取りだし、ポリポリと噛りだした。酔い止めの効果があるのだそうだ。みんな焦りもせず、雨が降れば濡れればいい、風が吹けば吹かれればいい、というぐあいに、その時の事情に身をまかせていた。
それから数十分後、パジョンソンはしかたなくモーターを直すのをあきらめ、帆を上げたのだった。

海は絹の織物のようだった。光と時と場所によって、コバルトブルーだの水色だのに色が変わっていく。潮風に吹かれながら海をみつめたまま数時間が過ぎた。
やがて、黒いおおきな物体がふたつ、船体から離れていった。亀である。大亀だ、大亀だ、と私が興奮して寝ている順子を揺さぶると、今度はチィチィが遠くを指差して、「奥さん、イルカ、イルカ」
と叫んだ。二頭のイルカがおどけるように、海面から跳びはねて宙を舞っていた。
竜宮城の話と現実とが倒錯しそうな世界に酔いながら、私はいつしかまどろんでいた。
ブルルルルッー。「おおい、直ったぞぉ」男らしさを強調しようとしぶとくモーターを直していたパジョンソンが、いかにも得意げに、びっくりするほどの大声で怒鳴った。
しかし、彼が期待していた喜びを誰もしめさず、相変わらずゴロゴロしていた。
そして、昼ちかくになって、
「もうすぐですよ」
と言うパグルの声でみんなは一斉に起き上がった。
私と順子はハッと息をのんだ。それは、天国のような風景だった。コバルトブルーの海のむこうに白い砂の筋が伸びて、その上に緑色の島が浮かんでいた。
ライジュア島である。
島はひっそりと静まりかえり、風がかなでる椰子の葉音だけが、カサカサカサ、と大きく鳴り響いていた。
パジョンソンが先頭をきって浜に一番近い家に向かって上がって行った。台所にしている小屋の奥に、椰子の葉でふいた母家が建っている。豚がどこからかを出てきて、チョロチョロと庭先を動きまわっている。
「よおッ、おれだぁ」
パジョンソンは自分の家にでも入るような調子で母屋の入り口をまたいで入っていった。ライジュア島からサウ島へ渡る唯一の交通機関である船を持っているだけで、けっこう大きな顔ができるようだ。
しばらくして中から、頼りないほど痩せた中年の、しかし鼻の下にある三角の髭と入道雲のように広がった頭の毛だけは立派な男が、目ばかりキョロキョロさせて顔を出した。
「こんにちは。私、日本からここの島の昔話を聞きに来ました」
私が挨拶すると、男は慌てて、脂のないしなびた口もとに笑みを作った。
「いやぁ、まぁ、どうぞ。貧乏でむさくるしい所ですが、どうぞ入ってください」
この時、パジョンソン以外の来訪者全員がそれぞれの心の中で、もてなしたくとも出来ないこの家の生活状況をとっさに感じとっていた。
南向きに建てられた家の中に入ると、中央は裏に抜ける通路になっていて、食事などをする、木でできた長方形のテーブルとイスが土間の上に置かれてあった。
そして、部屋は西側と東側にそれぞれひとつずつ設けられ、荷物を置くようにすすめられた東側の部屋の中は窓がないにもかかわらず、竹で編んだ壁から漏れる外からの光で、昼間のように明るかった。
ここの奥さんと思えるひとが痩せた小さな赤ん坊に乳をすわせ、その傍らでは老女が、やはり痩せた同じくらいの月数の赤ん坊に、哺乳ビンにいれた茶色い水を飲ませている。そのまわりを五人の子どもがとり囲んでいた。 私と順子が挨拶をして何か言う前に、老女が薄い口を開いた。
「この赤ん坊はまだ五カ月しかなっとらんのに、このとおり乳がたりなくって。双子なんです。砂糖水を飲ませとります」
私は赤ん坊の月数を聞いて返す言葉がなかった。どう見ても、生まれたばかりにしか思えなかったのである。
そばにいた順子に、
「この赤ん坊、五カ月にもなるんだって。ミルクがなくて砂糖を水飲ませているみたいよ」
「えっ、そうなの。それにしては、まだ首も座っていないじゃない。痩せているよねぇ。」
「母親を経験しているわたしたちには辛いわよねぇ。でも、今は何も言わないで後からミルクを送ろう」
私は、老女のやさしく穏やかな目を避けるために、
「写真をとりましょう」と、話の腰を折った。 インドネシアにはゴトンロヨン(相互扶助 )という精神文化がある。私はこの言葉を聞いた当初、これは単なる助け合いの精神と理解していた。しかし、さまざまな人との出会いを重ねるにしたがい、ゴトンロヨンはインドネシア社会に深く根をはった文化であることが分かってきた。
この文化をしっかりと理解しないでインドネシアの人々を理解するのは不可能だと私は思っている。いや、それどころか、とんでもない誤解が生ずる場合さえある。
私が昔話の採集旅行をはじめる前、商売でよくインドネシアを訪れる日本人から、インドネシアへ行くといろいろせびられるからと、愚痴を聞かされたことがあった。
インドネシアを旅した経験のある人がこの愚痴を聞いたら、恐らく、当然と肯定するだろう。何のことはない。私そのひとりだったのだから。しかし、この愚痴は大きな誤りがある。
インドネシアの村落共同体に根差しているゴトンロヨンは、金でも物でも労働でも、有る人は無い人に分け与えることが、福祉的な意味ではなく、当然のこととして行われている精神文化なのである。
だから私が聞かされた日本人の愚痴には、被害者的あるいは憐憫的な意味合いしかこめられていないが、立場が逆になった場合、インドネシアの人々は同じ視点で、実に驚くほど徹底して助けてくれるのである。 この老女も、金を持っていそうな外国女から何か巻き上げようとしているのではなく、「今、私は困っているの。私がお返しできることはしますから、あなた様のできる範囲で私を助けてくれませんか」
と、目で訴えていたのである。

右から パジョンソン、私、チチ、パグル、オクタ
持ってきた真空パックの五目飯を食べてからこの島の「聖なる地」クティタへ行くことになった。そこで昔話を聞かせてもらうつもりだった。
「なぁに、遠くないさ。片道二時間もありゃ十分だ」
パジョンソンが、ちょっとそこまで散歩に行くような調子で言った。
しかし、彼の言う時間は当てにはならない。この四十度を越す炎天下を、順子は歩いて行けまい。もし、彼女が途中で倒れ、死ぬようなことになったら、そう想像すると、泣き叫ぶ彼女の夫と子どもの姿が妄想となってチラチラした。
そこで私は、順子にその海辺の家で待っていてくれるようにすすめた。しかし彼女は、
「たとえわたしが死んだとしても、あなたのせいにはしないから。連れてって」と、母親の後を追う子どものように言い張って引かないのである。
死んで私のせいにしないと言われても、それを誰が証明するのかと考えたら、誰もいないではないか。かと言って、ついて来るなと怒鳴ったところで、当人が勝手について来てしまったらどうしようもないのである。私は、つくづく順子を連れてここまで来てしまった自分の優柔不断さが忌々しかった。
夫の顔色をうかがいながら金と時を貯め、子どもには我慢を強い、何とか決行できた今回の旅行なのに、私はどこまでお人好しなのだ。今更腹を立てたところでもう遅い。もう、こうなったら、自分の目的を第一番に考えよう。
くさくさして順子に八つ当たりしたい気持ちを、私はあえて切り替えようとつとめた。
そして、私、チィチィ、パグル、オクタそれに順子の五人は、威勢のいいパジョンソンの案内でクティタに向けて炎天下の、道なき道を歩きだしたのである。
全員がゴム草履をつっかけていたことだけが共通していた。しかし、ここが熱帯なのか寒帯なのか、もしくはビジネス街なのか、首をかしげてしまいそうな格好を、それぞれが勝手気ままにしているという感じだった。
パジョンソンは、ばかに張り切っていた。膝までズボンをたぐり上げ、どこを見てもビジネスをする相手などいないこの島でビジネスバックを軽快に揺すりながら先頭をきっていた。
それにつづいたのが気の弱いオクタで、この焦熱地獄を厚ぼったいネルの帽子をかぶり、細い背中にこれまた熱吸収のいい黒いリックを背負って、黙々と足を運んでいた。
私はよほど、こんなに熱いのに何故そんな帽子をかぶっているのかと訊いてみようと思ったが、やめておいた。それだけでオクタの細いつるっとした顔が傷つきしぼんでしまいそうな気がしたのである。
オクタの後についたのはパグルで、シャツの前をはだけて歩くさまは、痩せて小柄な体にもかかわらず、気負いのない力強さが伝わってきた。
それに比べ、順子は出だしから悲惨だった。赤いタオルを首からたらし、鶏のように頭を突きだしてハアハアと苦しそうに荒い息をしていた。
横に並んでがに股で歩いているチィチィが、そんな順子の顔つきを時々かかんでは覗きこんでいる。
そして、チィチイの横にいる私は、帽子の上にタオルを一枚かぶせて、ただパグルの尻だけをにらんで歩みを進めていた。
ところが、本格的な灼熱地獄は出発してから小一時間たって、海岸線からはずれて山地に入ったあたりからはじまった。
乾いた雑草が穴だらけの岩礁にへばりついて山を作っている。ここを超えれば先が見えるだろう。うだるような熱さのせいで頭がクラクラしだした。
「おおい、奥さん、あれがクティタだぁ」
山のてっぺんに一番乗りしたパジョンソンが下を向いて怒鳴っている。
私はいまにもへたばりそうな順子にかまわず一気に駆け上がって、パジョンソンが指差している方角に目をやった。
ぽつんぽつんと生えている椰子の木の間から、さほど遠くない所に円筒形につき出た奇妙な山が見えた。
「あれ? あれがそうなの?」
私が訊くと、
「ああ、そうだ。まあ、あと一時間も歩けば着くさ。まぁ、頑張って行こう」
パジョンソンはケロリとそう言って、遅れてくる者には目もくれずにまたトットッと軽快に歩きだした。かなりのスピードである。その歩き方から、「どれどれ、文明国日本の女のお手並み拝見といくか。文明国の女には腰抜けしかいないだろ。腰抜けでないなら俺について来てみろ」と、暗にほのめかしているようだった。
私は、なめられてたまるかとばかり、必死に彼の歩幅に合わせて交互に足を運んだ。汗が、体中から吹き出しては流れている。顔が火のように熱い。頭が朦朧とし始めた。イチニ、イチニと、交互に出す足の動きに重ねて心の中で繰り返しつぶやいて歩いた。自分が西に向かっているのか、東に行っているのか、尋ねる気さえ失せていた。
突然、トウモロコシ畑でパジョンソンの足が止まった。振り返ると、オクタが棒切れをつっかえにして後に立っていただけで、パグルもチィチィも、そして問題の順子もいなかった。
「日本の女もけっこう強いもんだな。だけど、ここの女にはかなわねぇだろ。ほら、あそこ、あそこを見ろ。ああやって、ここの女たちは毎日こういう所を歩いているんだ」
見ると、パジョンソンの立っている先から裸足の女が、水の入った黒いバケツをふたつ天秤棒にぶらさげてやって来た。
恐るべきたくましさである。呆気にとられて「ああ」と答えたきりで、私はそこにぺたんと座り込み、彼女の後姿をうらめしい目で追っていた。
パジョンソンはやはり私たちの強さを試しているのだ。
だが、ともかく水が飲みたかった。こんな時、氷の入った冷たいコーラが飲めればどんなに幸せなことか。いや、お湯だ。お湯でいい。
私はすでに、勇敢な日本女性でなくてもいいと思いはじめていた。ただ、チィチィが肩からぶらさげている魔法瓶のお湯が飲みたかった。
やがて、チィチィとパグルが順子をはさんで追いついて来た。
順子は色白ではないが、お洒落な女である。今回の旅行にしても、いくら私が口をすっぱくして、バリ島あたりで遊ぶのに洒落た格好は必要ないと言っても、余計なおせっかいにしかならなかった。成田に現れた彼女は、セミロングの髪をソバージュでもりあげ、白のパンツとジャケットをコーディネイト。さらに金の、腕輪とイヤリング、それに二重のチェーンネックレスをきらびやかに輝かせていた。
そのさっそうたる彼女が、今や死にかけた鶏のように赤いタオルを首から垂らして杖をつきながら這い上がって来るではないか。
笑っては悪いと思ったが、私は笑わずにはいられなかった。そんな私を横目で睨みながらも順子は、しばらく何も喋れずハアハアと荒い息を繰り返していた。
「いやぁ、日本の女は強いなあ」
パジョンソンがお世辞たらたらの言葉を吐いた。
チィチィが最後に上がって来た。これでお湯が飲める。チィチィの持っていた魔法瓶に私がとびついた途端、パジョンソンが怒鳴った。
「飲んだらへたばるぞ!」
怒鳴られても蹴られても、私は飲みたかった。そして、カップに半分ほどのお湯を一気に飲みほした。すると順子が、
「私にも頂戴」
お湯の入ったカップを受け取ると、順子はムクッと顔を起こしてそれを飲んだ。それから、この上ない笑顔で、
「ヤマトナデシコ、私」
そして一息ついて、
「ううんと、ええと、強い女、ヤマトナデシコ。分かる?」と、大声で言い足した。
みんながニヤニヤ笑いだすと、順子は痩せた腰を奮い立たせて「さあ、出発しよう」と空元気の気勢をあげた。
焦熱地獄を歩きつづけて すでに二時間は経過していた。
しかしあれほど近くに思えたクティタには依然として到達しないのである。思いあまった私は、カモシカのような足でリズミカルに先頭をきっているパジョンソンに歩み寄り、
「まだ着かないの? もう二時間はたっているのに」と文句をつけた。
「奥さん、あと一時間、一時間だよ。この先少し行くと俺の家がある。そこでちょっと休んでいこう。そしたら、すぐだ」
確かに彼の家は小高い山の上にあった。回りを石垣で固めた敷地に、おやと思うほど立派な家が建っていた。
「さあ、俺の家だ。みんな、入ってくれ。おおい、客だ」
パジョンソンの声で出てきたのは、これまた意外にも、彼の娘のように若い、三番目の奥さんだった。
「見せたかったのさ」
パグルが呆気にとられている私の耳元でささやいた。チィチィの視線をとらえると、チィチィはエヒヒヒッと笑って、頷いてみせた。
娘のような奥さんは、骨の髄まで可愛い女でいることに徹していた。
「可愛いじゃない、パジョンソン」
私が茶化すと、順子も調子に乗って可愛いを連発した。
どうやら、自分の妻の美しさの度合いを外国女から仰ぎたかったようだ。パジョンソンは十分に満足した面持ちでにこやかさをふりまいている。
しかし、私は相手に値踏みさせる受け身のひとは苦手である。どこをつついてみても、心が相手の中心に届かないからだ。
私は順子とチィチィを誘って、家の西側にある板張りの濡れ縁で仰向けにひっくり返っていた。空が青く、静かだった。私たちはまるで小学生の子どものように、クククッと顔を見合わせて笑い合った。これといって可笑しいことがあったわけではないが、何となく可笑しい気分になっていた。
「さぁ、日が暮ないうちに行こう」
パグルがオクタを伴って家から出てきた。それにつづいて、パジョンソンも出てきた。
しかしチィチィは寝そべったまま、
「あたし、ここで待ってる。イブたちが帰ったら食べられるように料理を作って待ってる」と言いだしたのである。落伍者第一号の出現であった。誰もが、当然順子が一番にそうなるだろうと踏んでいたので、チィチィの言葉は意外だったし、出端をくじかれた感じだった。
休んでお湯をたっぷりのんだせいか、体がだるく、足が思うように動かなくなっていた。その上、平坦な、道なき道がほとんどなく、登ったり下ったりがつづいた。登った時点でクティタを見ると、あたかもすぐそばにあるかのように見えるのだが、不思議なことに、どこまで歩いても着かないのである。
「パジョンソン」
私が叫んだ。
「はいよッ」
「パジョンソンは、いつもあと一時間したらクティタに着くって言っているけど、何時着くのよぉ」
背中を向けているが、何やら笑っている様子だ。私はムッとして立ち止まって、
「どうして笑っているのぉ?」
と、また叫んだ。すると、パジョンソンも立ち止まって振り返り、
「あと一時間って言えば、みんな、あと少しだと思って歩くだろ。何時間も歩くなんて言ったら歩くのが嫌になっちぃまうだろ」 目の前が真暗になった。あとどのくらい歩けば着くのだろうか。着く前に日が暮れたらどうなるのだろうか。
不安が不安を生み、不安は巨大化するいっぽうだった。しかし、現状において出来ることはひとつしかないのである。足を右、左、と交互に出す、もしかしたらという仮定法を使わずに機械的に出しつづけることである。 日はしだいに傾きかけていた。山をいくつ越えたのかなどと考えるのもうとましかった。ただ、目の前にある赤土の急なはげ山を、右、左、と足を出して爪を山肌に引っ掛けて登ることだけを思うようにした。
てっぺんが近づいてくると、可笑しなもので、汗にほこりがつき、また汗が出て、ほこりがつく、そうなると、しまいにはほこりが日焼け止めになるなあなどと馬鹿げた考えが浮かんできたりもした。
「奥さん」
あまり物を喋らないオクタがすうっとわたしのそばに寄ってきた。
「奥さん、順子さんは病気なんですか?ずっと苦しそうに咳をしています。可愛そうに。もう歩けないと思います」
振り返ると、赤いタオルで頬被りした順子が、いかにも苦しそうに咳をしながら這い上がって来るのが見えた。
順子は幾度となく重心を失っては土ぼこりをあげてズルズルと滑り落ち、そのたびに後に控えているパグルに起こしてもらっていた。
オクタの言うとおり、順子は赤土のはげ山で先に進むことを断念した。しかし、問題があった。順子をこの場所で一番近い家に置いていくにしても、ここまでは全員一致で決まったのだが、誰が彼女の番をするかという難問が生じたのである。誰も口に出しては言わないが、気弱なオクタでは頼りないし、パジョンソンは道を知っている唯一のひとである。そうなると、パグルしかいない。しかし、クティタの人たちと親交の厚いパグルが行かないとなると、彼らが昔話を話してくれる可能性はほとんど無くなる。どうするか。すでに日はかなり傾いていた。
「私が残るしかないな」
パグルが口惜しそうに、沈黙を破って言った。そうするしかないのは誰もが分かっていたから、パグルの決断に対して誰も何も言わなかった。
しばし、また沈黙の空気が流れた。
「さあ、行くぞ」
パジョンソンが振り切るように立ち上がった。それにならってオクタが立った。
パグルは順子を連れて、山を下っていった。一方私たちはさらに山を登りつづけ、下り、灌木の生える平坦地にたどり着いた。
「ここだ!」
パジョンソンの声で顔を上げると、ぽっこりと天に向かって突き上げているガチガチの岩山があった。
「おおっ」「おおっ」
私とオクタが同時に歓声をあげた。やっと着いたのである。クティタは「聖なる地」にふさわしく、崇高な雰囲気を漂わせていた。
アロエが列をなして群生している登り口から、大きな岩に掴まりながらよじ登っていく。かなりの急傾斜である。
「下を見るな!」
パジョンソンが振り返って叫んでいる。私は極度の高所恐怖症だ。しかし、見るなと言われると、見たくなるのが人の常。私はしっかりと岩にかじりついて、チラッと下に目を流してみた。
手と足がザワザワした。ぞっとするような絶壁にわたしはいたのである。しかし、驚くのはそれからだった。
この絶壁を、しかも裸足で、女が天秤棒にバケツをふたつもぶら下げて下りて来たのである。ということは、パジョンソンに訊くまでもなく、女たちは毎日、数回あるいは数十回、水の入ったバケツをふたつぶら下げてこの恐怖の絶壁を上っているということになる。 慣れといえばそれまでだが、恐らくなかには足を踏みはずして死んだ者も出たであろう。
それでも、「聖なる地」の聖たる所以は、天界に住む神にいくらかでも近い地にあることだろうから、彼女たちにとっては、絶壁を上り下りするのは有り難い作業なのかも知れない。


クティタで。
てっぺんは、刃物で山の上部を切りとった後のように、狭い場所が平らになっていた。家が数件ある。子供も鶏もいる。その向こうに何やら奇妙な形をしたものが見えた。思わず走りよってみると、今まで見たことがない、先端が緑で覆われた円筒形の島がポッコリと数個、クティタの山のてっぺんほどの高さで海から突き出していた。
それは、海面に緑色の頭だけを見せていた小さな島が、ある日突如として隆起し、その茶色の肉体をも披露したという感じだった。日が沈みかけ、あたりに闇がせまっていたからかも知れないが、その風景はさながらおとぎ話に出てきそうな不思議な雰囲気をかもし出していた。
ここで私は初めて、クティタは海岸にあったことを知った。私たちは海岸から内陸に入り、山を幾つもこえてまた海岸に出ていたのである。
長老もその息子も、そしてふたりの奥さんたちもきちんと慣習法に従って、ここの織物を身にまとい出迎えてはくれたが、(正装をしたのは礼儀という意味もあるが、悪霊がとりついているかもしれない見知らぬ者から身をまもるという意味のほうが大きいのである)結果は、順子がはげ山で挫折した時に予想したとおりだった。
奇妙な島や、祈りに使われる石の写真を撮ることも許されず、昔話の「む」さえ話して貰えなかった。それは、私がこういう場合に持参すべきシリ、ピナン、噛み煙草を忘れてしまったことにもよるが、何といっても長老の信頼をかっている者が同行しなかったために、長老が、悪霊にとりつかれているかもしれない見知らぬ者に聖なる地を汚されるのを恐れていたからなのである。
予期していたこととはいえ、体中の力が一度に抜けていくのが感じられた。私は歩きたくなかった。しかし、歩いて帰るしかない。
パジョンソンに導かれてどうにか地上に下りた時には、日はとっぷりと暮れ、あたりは闇と化していた。
闇はしだいに漆黒に変わる。パジョンソンの足下を丸く照らす懐中電灯の明かりだけが目印になった。しかし、昼間のような大胆な歩きはできない。ゴム草履を通して伝わってくる足の裏の感覚で危険か否かを判断するしかないのである。
「まてよ、違ったかな?」
パジョンソンの懐中電灯が止まると私が止まる。そうすると私の後で何も喋らなくなったオクタの足音も止む。
「ううんと、これがそうだな」
どうやらパジョンソンは何かを目印にして歩いているようだ。
「何を探しているの?」
懐中電灯を照らしているそばに立ち止まったまま私が訊いた。
「獣道さ。ほらここに山羊の糞があるだろ。この道を行けばいいんだ」
そういえば、クティタからここまで、足の裏をいつもゴロゴロした豆のようなものを踏んづけながら歩いて来た。暗闇の中で、人が道に迷わないための知恵だったのか。
一時間ぐらいたっていたろうと思う。足は棒切れのように感覚が無くなっていた。暗くて見えないが、足の裏は豆ができ、潰れ、出血しているようで、ヌルヌルしていた。
「ホォゥーイ、ホォゥーイ」
突然、パジョンソンが叫んだ。
「ホォゥーイ」
闇の向こうから返事が返ってくる。私には何も見えない。パジョンソンが足を早めた。地面はどうやら粘土質の土が乾いて岩のようになっているようだ。傾斜している。パジョンソンが飛び越えた。チラチラと動いている懐中電灯の明かりが、パッと私の足下あたりを照らした。はまったら足を折ってしまいそうな溝がポッカリと口をあけていた。
「気をつけて。オクタ、お前もな」
雨季に流れ出た大水が地面をえぐった跡だと言う。今は一滴の水も見えないが、さぞかしすさまじい量の雨が降るのだろう。
幾つかの溝を飛び越えながら傾斜した地面を下っていくと、パジョンソンがまたいきなり立ち止まって喋りだした。
「やあ、XXに行くにはどう行けばいいのかね?」
「ああ、そこを下るとすぐだ」
「仕事の帰りかね?」
「ああ。トァック飲むかい?」
じっと闇をこらして見ると、天秤棒に扇子形の入れ物を、前後にぶら下げて近づいて来る男がいた。黒い肌が闇に溶けて輪郭ははっきりしないが、その声や気配から男であることだけは分かった。
「奥さん、トアック貰って飲むかい?」
貰ったトアックを飲んで一息ついたパジョンソンが訊いた。私は、一瞬、どうしょうかとためらった。
喉はからからに渇いていた。しかし、ゴミや虫が入っていても、この闇の中じゃ見れやしない。もしかしたら病気になるかもしれない。どうしようか。そう迷いながらも、片手は肩に掛けていた布袋の中の紙コップを掴んでいた。
もういい。病気になったらなったまでのことだ。コップを差し出すと、トォッーと快い音とともに、なみなみとトアックが注がれた。「うまぁい!」
私は思わず叫んでいた。ほどよい甘さが舌に広がり、食道を通って胃袋にジワッとしみていくのが感じられた。
トアックとは、ロンタル椰子の、花が咲いている茎の部分を切って出でくる汁を集めたものである。前に数回飲んだことはあったが、感激するほどうまいとは思わなかった。
ところが今回は、この世にこんなうまいものがあったとは信じられないほどうまいと感じられるのである。そうなると、病気などどうでもよくなっていた。そして私はもう一杯のトアックをと、闇の男に空になった紙コップを差し出した。
私の凄まじい飲みっぷりを、闇の男もパジョンソンもそしオクタも、ゲラゲラと声を上げて笑っていた。ひとのことを笑っておきながら、オクタもかなり喉が渇いていたらしく、扇形の入れ物に口をつけ喉を鳴らしながらがぶ飲みしていた。顔が見えない闇の中で、施した者も施された者も穏やかに微笑んでいた。
男はふたたび闇に消えて行った。私たちは、順子とパグルが待っている家へ向かうべく、男が示してくれた方角へ足を進めた。
順子とパグルは、ランプのともした薄暗い家の土間に、ゴザを敷いてぼんやりと座っていた。
「あたし、何回も表に出て、山の方を見ていたのよ。パグルはもうすぐ来るみたいなこと言うんだけど、あたしにはちっとも見えないの。不思議よねぇ。あたしたちの目って、どこか退化しちゃってんのかしら?」
順子はわたしの姿を見ると、いかにもホッとしたように、待っていた間の彼女の心境をとめどもなく説明し出した。
「どうもそうみたいね。で、怖くなかった?」
「そりゃ、もう、怖かったわよ。パグルがいてくれたけど、あたし、ここで殺されてしまうんじゃないかって。そんなことずっと考えていたけど、そのうち、殺されるんだったら殺されてもいいと思えるようになってきたの。そしたら、ずっと気が楽になって‥‥」
パグルが、順子の後からクティタでの様子を知りたさそうに私の顔を見詰めていた。わたしが駄目だったと言うと、口惜しそうに舌打ちして、
「奥さん、来年、また私が案内するから。初めて行って、昔話を聞かせて貰おうたって無理だ。そう思ったほうがいい」
と私をなぐさめた。
人数が増えると、暗闇の道を歩くのにも余裕が出てくるから不思議である。灌木の生えた山の中で、パジョンソンは方角を見失ったらしく、あちこちを懐中電灯で照らしながら行ったり来たりを繰り返していた。
その時順子が日本語とインドネシア語を交えながら明るく、
「リハット、ランギット。ビンタン、ビンタン、リハットビンタン。ねえ、見て、星がきれい。いっぱいある」
と、空に向かって言った。
仰ぐと、漆黒の闇の上に満天の星が、黄金の光をはなって所狭しとばかりにひしめき合って輝いていた。
こんなにもたくさんの星を私は生まれてこのかた見たことがなかった。なんと美しく壮大であることか。
私たちは、その美しさに浸りながらしばらく空を仰いだままの格好で、パジョンソンを先頭に列をなして歩いていた。その方角が正しいのか正しくないのか、気にとめる者はいなかった。
「蒼い空に小さな星~~」
順子がインドネシア語で子供の歌を歌いだした。それにはっぱをかけるようにパジョンソンの濁声がつづいた。そして、パグルも、ひ弱な声のオクタも私も洋子にならって歌いだした。
「いっぱいの星が空を飾ってる~~」
歌は私たちの心をつなぎ、疲れや恐怖や不安を蹴散らし、楽しさの中に安心を生んでくれていた。
「つぎは、アヒルちゃんの首をちょんぎってナベで煮ましょをやろう。オクタ、歌えるでしょ?」
元気を取り戻した私が言った。
「歌えまーすッ」
真面目で気の弱いオクタが、初めておどけてみせた。
「じゃあ、一、二の三、ハイ」
順子がハッスルして、自分から音頭をとった。
「アヒルちゃんの首を、ちょんぎってナベで煮ましょ。かわいこちゃんがダンス、踊りましょって言ってるよ~~」
足は相変わらず棒切れのままだったが、みんなで歌っていると妙なもので、よろよろしながらも歩くのが苦ではなくなっていた。
チィチイがパジョンソンの三番目の奥さんの家の前で立って待っていた。
「お腹空いたでしょ。ご飯作っておいたから、食べよう」
ランプがともされた部屋にはご飯と鶏肉、それにスープが食べるばかりに用意されてあった。

チィチィ以外の誰もが食欲旺盛だった。特に、順子の食べっぷりは群をぬいて凄まじいものがあった。汗とほこりでネトネトになった髪の毛を垂らしたまま、ガブッ、ガブッと鶏肉に食いつくさまは、やっと獲物にありつけた原始人そのものと言っても過言ではなかった。そのうえ、食いついても引きちぎれないほど硬いその肉を、もったいないからと後生大事にビニール袋に入れて腰にくくりつけ、明くる日まで腹がへっては袋から取り出してしゃぶりつづけていたのである。
胃袋が十分に満足したところで、パジョンソンを若妻のもとに残し、私たちはまた闇をついて歩きだした。
それが一時間たったころなのか、二時間なのかはっきりしないが、微かにサワサワという波の音が聞こえた気がした。立ち止まって耳を傾けると、やはり聞こえる。
「海だ! パグル、海でしょ?」
「そうだ。もうすぐだ」
「順子、海、海よ。もうすぐだって」
私は思わず、黒くぼんやりと映る順子の体に跳びついて跳ねまわった。
「よかったよねぇ。これで帰れるんだわ」
波の音が大きくなっていくにしたがい、私たちの歩みも早くなった。そして、足の裏に砂の感触を得た時から、出発点に戻れたのだという喜びが、実感となって胸の中に広がった。