インドネシアの昔話を求めて(十五の前半)

            (十五の前半)

 

 

 結局、出発地点の砂浜に戻ったのは夜中の十時半だった。

約九時間近く歩いていた事になる。そんな体力が自分にあった事がおおよそ信じられなかった。

 砂浜には、暑さをちょっと凌ぐために棒を立てて組んだ棚に、椰子の葉をパラパラと載せた

場所があった。

 パグルは其処にゴザを敷いて寝ようというのだ。昼間世話になった家に泊めてもらってもいいのだけれど、

蚊がいるから心配だと言った。

「じゃあ、海辺だと蚊はいないの?」

「そう。海辺だと蚊はいない。マラリアになる心配もない」

 初耳だった。蚊に喰われず、他人に気兼ねすることもなく、波を枕に寝るなんて最高ではないか。

 「いいねぇ」

私が嬉しそうに反応すると、パグルはオクタを伴ってそそくさとゴザ、枕、ランプの調達に出掛けて行った。

 まもなく、ゴザと枕を抱えたパグルとオクタが、入道雲のように髪の毛の旦那を引き連れて戻って来た。

 入道雲の旦那はランプを砂の上に置き、慣れた手つきでランプの横に付いている棒をシュッシュッと押した。

空気を送る棒らしい。押すたびに、まぶしい光が闇の中に飛び散った。

「ランプって明るいのねぇ」

 順子がしみじみと言った。私も何だか少し豊になったような気分でその光を眺めていた。

 借りて来た枕は、刺繍入りのピンクや水色の素晴らしいカバーが付いていた。ゴザの上に枕を五つ並べて、海側から、

パグル、オクタ、私、順子そしてチィチィの順番で寝る事になった。

 それは、ゴザの端っこにチィチィとパグルが寝て、私と順子の安全を守ろうとするパグルの気配りだったのである。

 

チィチィと私。海辺の砂浜で寝る。

Pak Guru(チィチィのお兄さんで教師。サブ島でもライジュア島でも人望が厚い人)

 

 何もすることがないので、私は、ランプの明かりを照らしてじっくりと足の裏を見てみた。出血はしていなかったが、いくつもできた豆が

潰れて土や砂がついていた。痛い筈である。軟膏を塗ると絆創膏つかないので、軟膏だけを塗って寝る準備に取り掛かった。

 汗と埃で汚れた服を着、ウエストバッグを腰につけたままサロンをはく。この場合、サロンはスカートではなく寝具に代る。

 ついでに付け加えておくが、このサロンは実に便利なもので、インドネシアで暮らすには必需品のひとつである。

 長さ150cm、巾110cmの織物を筒のように縫い合わせただけの物なのだが、布の裾を足のくるぶし辺りに合わせて穿き、

腰を紐で結わいて、まずはスカートに出来る。

 次に人前で水浴する時、薄手のサロンをつけていれば、サロンの下から石鹸を付けて洗える。風呂場で水浴する時は、バスタオルの代わりにもなる。

 また、女の人が野原などでトイレに困った時、その威力を十分に発揮する。つまり、用を足したい場所の土を爪先で掘って窪ませ、そこにサロンを

ふわりと広がるようにしゃがんで済ます。 遠くにいる他人が、そのしゃがんでいる女性を見て、彼女が用を足しているなどと思わないところがミソである。

 そして寝具に戻るが、やり方はスカートのように穿いた長いサロンの先を足の指でたっぷりとつまみ、もう一方の端は肩の辺りまで伸ばしてから

体を横にする。それから首の辺りで冷えないように余った部分を手繰り込む。もし、蚊などがいて眠れない時は、余った部分を頭のてっぺんまで伸ばしてすっぽりと被ればいい。

 この便利なサロンを付け、丸太のようになってゴロゴロしながら紙に巻いたツナを頬張っていると、入道雲の旦那が暇つぶしに子供を連れてやって来た。

「どうだね、ランプの調子は?」

「ああ、いいよ」

 パグルが体を横にしたまま相手にしている。

「タバコどうかね?」

パグルがタバコを勧めると、

「貰おうかな」

入道雲の旦那はタバコをスパスパ吸い出した。しかし、これといった話の種が無いらしく会話はそこで途切れてしまった。

 横に寝そべっているオクタを見ると、サロンから目だけを出してニタニタ笑っていた。この若者は修学旅行気分になっているのだろう。そこで私もニタニタと笑い返した。

その時順子が私の体を突っついた。

「ちょっと、ちょっと見てよ」小声で言った。

「何を?」

「頭の先」

「えっ?」

 仰向けになったまま頭をそっくり返して見ると、遠くの方にこっちを向いて座っている人達がいた。何もしないでじっと私達の方を見ている。

見間違いかと、反動をつけて起き上がって確かめてみた。サロンを着けていると一気に起き上がれないのである。

見間違いではない。男や女、年よりから若い者まで、身動ぎもせずじっと私達を見ている。

 いつの間に。何しに来たのだろう。

順子も起きた。

「何しに来たんだろうね?」

「何なのかしら?」

 チィチィとオクタはサロンを被り寝たふりをしているので、パグルに訊いてみた。

「見に来たのさ。奥さん達を見に来たんだよ。奥さん達が美人だから見たいんだってさ、ハハハハハ」

「馬鹿な事は言わないで!本当は何しに来たの?」

「本当に見に来たんだよ。珍しいからね」

「私と順子が?」

「そう」

「あんなに沢山の人、何処にいたのかしら?」

「何処かで見ていたんだろうな」

「少し怖いわ」

「大丈夫。私がいれば心配はない。悪さをするようならここの悪霊の名前を言えば、連中顔色変えて逃げて行くさ」

 パグルはそう言ってから平然と煙草を吸い出した。

 そばで私達の会話を聞いていた入道雲の旦那が、パグルに同意するように頷き、

「この島には悪い人はおらんです」と、笑ってみせた。

 ランプはずっと点けたままにしておくから気にせず眠ったほうがいい、とパグルが云った。

しかし、どうも気になって眠れない。順子もそばでガサガサと寝返りばかり打っている。

私はたまらなくなって、また仰向けのまま頭をそっくり返して様子を見た。

何という事だ。

 さっきまで遠くにいた人達が、いつの間にか、かなり近い所で相変わらず座り込んだままじっとこちらを眺めているではないか。

寝ている隙に移動しているのだ。しかも、前より明らかに人の数は増えている。ランプを持ち込み、ゴザ編みをしている老婆までいるとは。

一晩がかりで日本人を観察するつもりなのだろうか?

 私は順子を突いて、みんなで写真を撮ったら納得して家に帰ってくれるのではないか、と話してみた。

順子も、それがいいと言った。

 チィチィとオクタも起きた。

パグルは寝そべったまま事の成り行きを眺めている。

 チィチィと順子が、座り込んでいる人達に混じって写真を撮るポーズをすると、それに倣って若いのも年寄りも、男も女も、ゴザ編みの老婆も

すまして私が向けるカメラのレンズを見詰めた。

「ハイ、撮れました」

緊張した皆の顔がほぐれた。

 笑いながら島の言葉で何やらガヤガヤと云い合っている。

うまくいったようだ。これで眠れる。

 私達はまたサロンにくるまって体を横たえた。

静かだ。ザザーン、ザザーンと繰り返す波の音と椰子の葉を揺らす風の音だけが響き渡っていた。

 

「キャーッ、何、この人!」 

 翌朝、順子のけたたましい叫び声で跳び起きた。

見ると、昨晩の人達が、私達が寝ているゴザの周りに座り込んでいた。

「そっちじゃない!こっちよ!」

順子が顔を引きつらせて指差している。

見ると、私と順子の間にサロンにくるまった見知らぬ男が寝ていた。

 一瞬、頭が混乱した。現状をどう理解していいのか分からなかった。

だが、待てよ、落ち着いて考えてみれば、私はサロンにくるまって蓑虫状態で寝ていた。これは事実だ。この蓑虫の皮を剝がさない限り

この男が私を襲うのは不可能である。これも事実だ。

という事は、私は犯された覚えがないのだから、順子の身に何かあったのだろうか?

「それで何かされたの?」

混乱状態にある順子に訊いてみた。

「そうじゃない!」

「じゃあ、何なのよ?」

「寝返りを打ったらこいつがいたの。気持ち悪いじゃないの!」

順子は恐怖と興奮のあまり、そばにいたチィチィにかじりついたまま機関銃のようにまくしたてた。

 その声で目を覚ましたらしく当の男がムクムクと起き上がった。

まだ眠そうに目をこすっている。悪びれた様子は少しもない。

「何も無かったよ。私は一晩中起きていたんだから。そいつは其処に寝てみたかっただけさ。仲良くなりたいんだよ」

寝ころんだままタバコをふかしていたパグルが混乱をおさめた。

 男はヘラヘラ笑ってからゴザの周りにたむろしている仲間達に混じって雑談を始めた。

みんな真面目な顔つきで男の話を聞いては、ううーんと頷き合っている。

 島の言葉で話しているので、何を言っているのか解らなかったが、恐らく、隣の女はいい匂いがしただとか、寝言を言った、といった

類の事を尾ひれを付けて喋りまくっていたのだろう。

要するに彼らは、浜辺で寝ている異邦人を見たいけれど怖い、という心理で初めは遠くから眺めていたのだ。

 眺めている内に、こいつらはどうも自分達に危害を加えそうもなさそうだ。隣の島の者もいるようだし、大丈夫でねえか。

そのような事を誰かが言い出し、更に近づいて見るべえとなった。

 近づいて見ると、もっと近くで見たくなった。

そのようにじりじりと近づき、ついには異邦人が寝ているそばでじっくりと眺めて見た。眺めている内に、そばで寝るだけなら寝てもええんで

ねえか、といった具合になったのだ。

実にシンプルで愉快ではないか。大都会に住む順子や私には思いも寄らない行動を、彼らはごく自然に感情に従って起こしていたのである。

 

入道雲のように広がった髪型の旦那さんとその娘。